これから僕が書いていくのは、浮ついた話かもしれないし、ただの妄想かもしれないのだけど人生という名の実験を自分に課してみることにした僕はやっぱり書いてみることにした。
僕は何かしらの精神疾患を患っている。だけども今は寛解と言う日常的な生活にはほぼ困ってはいないほどの所までは回復しているのだ。
それまでは浮ついていた病気の症状のせいだろうけども浮ついていた。どこか遠くに自分の本物の性格が飛んでいき、サラサラと自分が薄まっていた。自分が存在しているのかわからない。
これは本人にしかわからないほど心細い感覚だ。しかしどこかその曖昧さを気に入ってもいた。寛解して良くなって、落ち着いている今この瞬間の感覚はとてもいいものだろうけど、それはそれとして、病気になっていた頃もそれはそれで楽しんでいたのかもしれない。
もう2度戻りたくはないけど、どこか寂しいと思う自分もいる。
何かが崩れていく感覚など知らない方がいいだろう。しかし、大人になれば幸せだけでは生きていけない。
何も知らないというのもひとつの強さであり、幸運なのかもしれないが、本当にそうなのだろうかとも思う。
この病気は人の思いを受け取っていく病気かもしれないとも思う。この精神病の名前を僕はこれから明らかにするかもしれないし、しないかもしれないけれど、少なくとも精神病になりやすい人は感受性が豊かな人が多い。そうじゃない人もなる。割合の問題だ。ただ、思いを受け止めてしまいやすい人がなる病気なのかもしれない。
何もない焼け野原に一雫の水を与えそれが緑に変わっていくようなそんな能力を秘めている人がいるかもしれないし、いないかもしれない。それはつまり、何もない所に寂しい空間にヤドリギのような、暖かい毛布を与えられるような人間がいるのではないかと言うことだ。
それは別に大したものではなく、褒められるものでもなく、必要なものなのかと言ったらそうでもないかもしれない。
ただ必要ない人ばかりではなく必要な人もいて、その必要な人がもしかしたら後々大きな必要を生み出したりするかもしれないという話だ。
僕たち精神病の未来は明るいのだろうか?暗いのだろうか?これからどうなって行くのかはわからないけど、チャンスはあるであろう、ネット環境も整ってきているし、誰もが発信できる時代だ。だからといっても変わらないものは変わらないだろうけどもできることもある。
これから僕は精神病の浮世人として冒険を始めようと思う。
どうかお付き合いくださいね。
ここまで読んでくださりありがとうございました。